その1
私は、特定の作家の作品を読み漁る癖があります。これぞと思った作家の作品を
追いかけるようにして読んで行くのです。ただ非常に遅読で、作家選びにも偏りが
あることを認めています。これらの傾向は、とても人様に自慢できるようなもので
はありません。その読書遍歴は高校時代にまで遡ります。そして高校生の私が初め
て傾倒したのは、やはり同郷の作家太宰治でした。
能ヶ谷通信
転居顛末 1
実現するかどうか分かりませんでしたが、若いときからずっと何時かは東京に 住まいたいと思っていました。そして、それを実行しようと具体的に動き出した のが、退職の五年ほど前でした。当初東京に住みたいと思っていましたが、埼玉 や千葉、神奈川の首都圏に、その範囲を広げて考えることにしました。そんな折、 上京したついでに、あの当代きっての目利きと言われた白州正子氏と吉田茂の片 腕となって活躍した白州次郎氏が住まった白州邸「武相荘」を見学するために小 田急鶴川駅に降り立ちました。そして、その駅前の不動産屋を覗いたのが縁とな り、五年ほどの歳月を経て、東京都町田市能ヶ谷の白州邸「武相荘」の縁を書斎 の窓から眺められる小さな家を求めることとなりました。
実現するかどうか分かりませんでしたが、若いときからずっと何時かは東京に 住まいたいと思っていました。そして、それを実行しようと具体的に動き出した のが、退職の五年ほど前でした。当初東京に住みたいと思っていましたが、埼玉 や千葉、神奈川の首都圏に、その範囲を広げて考えることにしました。そんな折、 上京したついでに、あの当代きっての目利きと言われた白州正子氏と吉田茂の片 腕となって活躍した白州次郎氏が住まった白州邸「武相荘」を見学するために小 田急鶴川駅に降り立ちました。そして、その駅前の不動産屋を覗いたのが縁とな り、五年ほどの歳月を経て、東京都町田市能ヶ谷の白州邸「武相荘」の縁を書斎 の窓から眺められる小さな家を求めることとなりました。
2012年10月23日
能ヶ谷通信
「雪降る駅で」出版記念会
去る十月十三日、拙著「雪降る駅で」の出版記念会を青森市の国際ホテルで開催 して頂きました。多くの方々にご出席頂き身に余る光栄でした。ご出席頂きました 皆様方に心より御礼申し上げますと共に、「雪降る駅で」を出版して下さり今回の 出版記念会も主催して下さいました泰斗舎(たいとしゃ)・山内様をはじめスタッ フの皆様に深く感謝申し上げます。
今回の出版の全てを泰斗舎の皆様にお任せし、私はただ流れに漂うような状況で、 出版の運びとなり、ものを書くことへの腹も定まらぬ様な状態で迎えた出版記念会 でした。しかし、その場に我が身を置いた時、初めてものを書くことのスタートラ インに立ったという思いを胸深く感じました。そして、これからは書くしかないの だと自分に言い聞かせました。
今は亡き母が何時も私に言っていた言葉があります。「大器晩成」。そうなりた いものだと、この度痛切に感じました。書くしかありません。
去る十月十三日、拙著「雪降る駅で」の出版記念会を青森市の国際ホテルで開催 して頂きました。多くの方々にご出席頂き身に余る光栄でした。ご出席頂きました 皆様方に心より御礼申し上げますと共に、「雪降る駅で」を出版して下さり今回の 出版記念会も主催して下さいました泰斗舎(たいとしゃ)・山内様をはじめスタッ フの皆様に深く感謝申し上げます。
今回の出版の全てを泰斗舎の皆様にお任せし、私はただ流れに漂うような状況で、 出版の運びとなり、ものを書くことへの腹も定まらぬ様な状態で迎えた出版記念会 でした。しかし、その場に我が身を置いた時、初めてものを書くことのスタートラ インに立ったという思いを胸深く感じました。そして、これからは書くしかないの だと自分に言い聞かせました。
今は亡き母が何時も私に言っていた言葉があります。「大器晩成」。そうなりた いものだと、この度痛切に感じました。書くしかありません。
2012年11月02日
文学の周辺
荒屋(あばらや)「喜入庵(きにゅうあん)」
町田市には市立「町田市民文学館」があります。作家遠藤周作氏が40歳の 頃から町田市玉川学園に住んでいた縁で、彼の没後に御夫人から蔵書や遺品 3,000点余りが町田市に寄贈されたのが、この文学館を設立するきっかけに なったと言うことです。
ご存じの通り彼は、「白い人」で昭和30年上半期の芥川賞を受章し「沈黙」 「海と毒」「深い河」など作品を次々と発表しました。彼は自宅を「狐狸庵 (こりあん)」と命名されました。
笑止なことを申し上げますが、我が荒屋には「喜入庵」と名付けた小さな 部屋があります。そこで私は戯れに我が荒屋自体を「喜入庵」と呼んでいま す。
少しでも遠藤周作氏にあやかりたいものです。
町田市には市立「町田市民文学館」があります。作家遠藤周作氏が40歳の 頃から町田市玉川学園に住んでいた縁で、彼の没後に御夫人から蔵書や遺品 3,000点余りが町田市に寄贈されたのが、この文学館を設立するきっかけに なったと言うことです。
ご存じの通り彼は、「白い人」で昭和30年上半期の芥川賞を受章し「沈黙」 「海と毒」「深い河」など作品を次々と発表しました。彼は自宅を「狐狸庵 (こりあん)」と命名されました。
笑止なことを申し上げますが、我が荒屋には「喜入庵」と名付けた小さな 部屋があります。そこで私は戯れに我が荒屋自体を「喜入庵」と呼んでいま す。
少しでも遠藤周作氏にあやかりたいものです。
2012年11月06日
能ヶ谷通信
「雪降る駅で」 校歌について
拙著の単行本「雪降る駅で」の冒頭に、この舞台となった港北高校の校歌が載せ られています。でも物語の重要なモチーフであるこの校歌は、最初から出来上がっ ていたものではありません。物語が完結し単行本になる時に、その校歌が初めて出 来上がったのです。
しかし、物語を書き進めるなかで、必然的にそして何気なく校歌のワンフレーズ だけが出てきました。ほんの一行だけです。その一行が主軸となって物語の全てを 語るように、港北高校の校歌が出来上がりました。
その校歌のワンフレーズは、一体物語のどこに出てくるのか。それを楽しみに読 んで頂くのも良いかも知れません。
拙著の単行本「雪降る駅で」の冒頭に、この舞台となった港北高校の校歌が載せ られています。でも物語の重要なモチーフであるこの校歌は、最初から出来上がっ ていたものではありません。物語が完結し単行本になる時に、その校歌が初めて出 来上がったのです。
しかし、物語を書き進めるなかで、必然的にそして何気なく校歌のワンフレーズ だけが出てきました。ほんの一行だけです。その一行が主軸となって物語の全てを 語るように、港北高校の校歌が出来上がりました。
その校歌のワンフレーズは、一体物語のどこに出てくるのか。それを楽しみに読 んで頂くのも良いかも知れません。