2013年05月21日

能ヶ谷通信

つれづれに思うことC


 茶会では、作者が分からない道具を使うことを殆どしません。「どなたのお作ですか」と聞かれ、それに答えられなければならないからです。ですから、様々な茶会で使われる道具は、同じような作者が名前を連ねていることが多いのです。そして流儀の規範から決して外れないように道具組みをすることが大半です。それは、とても無難ではあります。しかし、面白みに欠けます。その時代の香りを湛えてはいません。そして、その席主の個性を感じることが出来ません。
 茶の湯は、違ってこそ命。その昔、誰が作ったか分からないような品物の中から、様々な美や価値を見出して使ったのが利休です。無名の人達が作った道具の中から、美や価値を見出せる眼を養いたいものだと考えるのです。


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2013年05月29日

能ヶ谷通信

喜入庵だより


床の間編 E


 東北地方も、田植えの季節となりました。
 床の間に、田植えする早乙女の姿を描いた墨絵の色紙を飾りました。此の色紙は昭和五十三年に青森県西北五地区のお寺の御住職が描かれたもので、田植えする早乙女の背景には遠景の岩木山(津軽富士)がくっきりと聳え、爽やかな風を感じます。
 この絵には
 「精出せば氷る暇なし水車(みずぐるま)」
と、賛が書かれています。
 家内が刺した「こぎん」で作った色紙掛けに、この色紙を飾りました。
 花は九蓋草(くがいそう)です。父の愛した花です。因みに父は生前、農機具の販売・修理の店を営んでいました。田植え時、父の忙しく立ち働く姿が目に浮かびます。


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2013年06月03日

能ヶ谷通信

喜入庵だより


茶杓編 1
五竜の破れ(ごりゅうのやぶれ)


 三年ほど前に、古い茶杓(ちゃしゃく)を手に入れました。その茶杓は真竹の逆樋(さかひ)で、節上に雨雲から斑に雨滴が降り出したような染みが有り、一目見て気に入りました。しかし、筒は詰蓋(つめぶた/筒の栓で木を削って作ります)がなく、下の方も朽ちて穴が開いて破れていますが、茶杓は紫の縮緬で作られた袋に収められ守られています。筒を入れる箱はしっかりした桟蓋で、箱内底に「一如居士」の作と書かれた古紙が貼られています。この「一如居士」とはいかなる人かと、色々と調べてはいますがはっきり分かりません。ただ、古紙には寛政時代(江戸後期)の大徳寺再住位と書かれています。
 雨の染みの様な景色と筒の破れから、銘を「五竜の破れ」とつけていて、私は梅雨の季節にこの茶杓を使います。「五竜の破れ」とは、雨のことを言います。ちなみに五竜祭とは、雨乞いのことを言います。
 「尊きも卑しきも 五竜の残(やぶれ)を脱(まぬが)れず」〈東大寺諷誦文稿〉
 この中から、頂いた銘です。


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2013年06月11日

能ヶ谷通信

つねづね思うこと 1


私の思う茶人について


 茶の作法を知っていれば茶人かというと、そうではないでしょう。それでは、茶の作法を知らなくとも茶人になれるかと言えば、それも違うでしょう。要は、茶の作法から精神としての茶の道を知り、その心働きを持って日々の暮らしを送っている人のことを本来の茶人と言うのだと思います。
 茶室を出て茶の心を忘れるようでは、茶人とは言えないでしょう。そうならないようにと、私はつねづね思うのです。


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2013年06月19日

能ヶ谷通信

つねづね思うこと 2


茶室について


 「知足(ちそく)」と言う言葉があります。正に字そのまま、足りていることを知ると言うことです。欲を出したらきりがない、今のままで十分という気持ちを持ちなさい。しかし、一般万民の人々が完全なる無欲になることなど出来ません。人間に欲があるからこそ、文明・文化が発達してきたとも言えると思います。しかし欲は無限です。その無限に広がる欲望をどうコントロールするか。求めても良い欲望は何か。それを見極めることが必要だと言うことでしょう。本来の茶室とは、それを具現化した物だと私は思います。権力者や金持ちは豪華絢爛、威風堂々たる城や屋敷を造ります。これを見よとばかりです。
 しかし、それとは違った美意識と価値観で造られたのが茶室です。極小の空間に、自分の身の丈に合った贅を込めて造った建造物が茶室なのです。勿論、床柱一本、天井の作り一つ等々に、こだわりを持って造れば財が掛かります。しかし、そうしなくとも自分の工夫一つで、己の身の丈に合った空間を造ることが出来るのも茶室です。
 茶室の始まりは自由な発想。飽くまでも茶を心静かに飲む空間であり、それが可能ならば約束事に縛られる必要はないと思います。原点に戻るならば、人それぞれに今住まう空間の中に茶の空間を作り出すことが我々の茶室なのではないでしょうか。それは、一時的な空間であっても差し支えないのです。そんな茶室的な欲を「少欲」と呼ぶのかも知れません。
 「少欲知足」この言葉をこの頃よく耳にします。「少欲知足」の精神で作った自分の茶空間を茶室と呼びたいと、つねづね思っているのです。


posted by nikki at 16:50| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする